いつものこと。

流れていく毎日を、忘れないように書き留めて。

バイオリンと戦う。〜真田丸OPテーマに希望をのせて〜

新年、だいぶ明けちゃっておめでとうございます。知らぬ間に1月も半ばにさしかかろうとしている。

 

平成30年から平成最後の31年への幕開けは、家族のインフルとその隔離作業と、10年ぶりの発表会に向けてのバイオリンの弾き込みだった。

 

昨年は、年末最後まで2回目の卵がひっついたかどうかでヤキモキし、ひっついてないことがわかり少しホッとしてしまったり、やっぱりダメか、、なんて思ったりと、私の気持ちは上下左右に揺れていた。一旦自分にお疲れ様でしたと言いたい。

 

年末からヤキモキしていたもう一つに、2/17に開催されるバイオリンの発表会に向けての曲が仕上がるかどうか、ということであった。

 

あまり、4歳の頃から習っていたバイオリンについて自分から言葉にしたことはなかったが、近頃グッと気持ちが引き締まる決断があったので、ここに書いてみることにする。

 

私がバイオリンを習い始めたのは、正直自分では覚えていない。物心ついた時には泣きながら練習していたという印象がある。母が言うには、従姉妹がやっていたのをきっかけに始めさせたのだという。

私は幼稚園に入ったばかりの頃から、いじめられてばかりいて、母が迎えにくる時には泣きべそをかいている事が多かった。いじめられていた内容は小さい頃によくある事で、なんか腹立つからつねった!とか、セーラームーンごっこで人間をやらせてもらえないとか、おもちゃをなかなか貸してもらえないとか、、笑。今思えば可愛いことだったような気がする。だが、幼稚園生にとっては毎日の大問題。なんで自分ばっかりこんな状況になるのか、、と幼心に自信を失くしていっていたのかもしれない。そんな私を見て両親が「何かこの子に自信をつけさせよう」と始めさせてくれたのが、バイオリンだった。

 

生涯お世話になることになるよーこ先生(仮名)との最初の出会いは、残念ながら覚えていない。物心ついた時には、よーこ先生の元気ハツラツとしたレッスンを受けていた。最初にレッスンをしていた場所は、壊れそうなトタン屋根の小屋だった。部屋には絨毯が敷かれていて、暖かく、冬の灯油の匂いを覚えている。レッスンには母が連れていってくれる時もあったが、父が付いてきてくれる時もあった。いつもカセットテープと録音機を持って、30分のレッスンを保存して帰ってくる。帰ってからのおさらいとして、母と恐怖のレッスンをするためだ。(よく卓球の愛ちゃんの幼い頃の特訓映像で泣いているのが映されるが、あんな感じ)

 

「パパァー!!パパパパーン!そう!そうそう!もっかい弾いて。、、パーーン!そうそう!!いーじゃない!」

よーこ先生のレッスンはこんな感じで、30分は気持ちと空気がぶつかり合いながら、白熱する。特に発表会前、コンクール前は、2割3割増しで白熱する。

 

「あの、、先生、今の音でいーんでしょうかね、、?(汗) キィーってなっちゃってますけど。。」

父がこんな風に先生に話していたのをうっすら覚えている。父母曰く、当時音大生だったよーこ先生は、とても若く、私の外した音にもいいよーー!と褒めてくれている姿を見て、正直大丈夫かな、、と思っていたらしい。(先生の自由な指導があったおかげで今の私がある)

 

私のバイオリンスキルのピークは、小学5年生の頃にコンクールで銅賞を取った時だろうか。その頃は将来はバイオリンニストになると決めていたし、それが無理ならばバイオリンの先生になると、友達からもらうプロフィール帳に書きまくっていた。1日最低1時間練習することは当たり前だったし、幼稚園の頃からバイオリンの練習をしなければ友達の家に遊びにいってはダメという約束だった。それでも友達の家に遊びに行く約束をしてきてしまう私の手に、母がマッキーペンで大きなバツを書く時もあった。(友人付き合いが悪い今の私の原因はコレか!笑)

 

中学1年生の時に、私はまた銅賞をとった時と同じコンクールに出ようとしていた。今度は最優秀賞を取りたいと!

そのために、自分で言うのもなんだが市内陸上大会女子100m優勝、市内水泳大会平泳ぎ優勝とそれなりに運動神経のよかった私は、部活を手芸部に決めた。そして、バイオリンの練習があるのであまり部活には出られませんと伝えていた。(手芸部には別で何か目指していることをやっているすごい子か、不良チックな子が在籍していた)

 

そして、コンクール1ヶ月前。なかなか仕上がらない音、追いつけないメロディ、辿り着けない音域、どれだけがんばっても私には弾ききれないんじゃないか。。レッスンに行く度に、いつもの表情とは違う先生の顔に戸惑い、家に帰ったら、そんな音じゃダメでは?という家族からの不安視する空気に耐えられなくなってきていた。

 

「私はバイオリンを嫌いになりたくないので、今回のコンクールは辞退します。」

 

こう家族と、先生に伝えた。

 

私は、逃げた。

バイオリンから。

努力から。

夢から。

 

 

今はそう受け止めている。

当時は、私にはこれ以上才能はないんだと言い聞かせていたし、バイオリンを趣味にするという道を選んだ自分を励ましていた。

 

そんな気持ちを奥底に抱えたまま、美術高校へ進学し、美術大学から大学院まで進学し、美術関連の仕事についた。そして、結婚して今に至る。

 

これまで、バイオリンは私の自慢の特技として、使える時にはたくさん演奏をしてきた。老人ホーム、児童施設、養護施設へ演奏会など、自ら率先して開催していた時期もあった。

 

いつでも私の中にある気持ちは、趣味として続けなければ、、という葛藤と、あの時に逃げた自分は正解だった、これが私とバイオリンの正しい生き方だということであった。

 

昨年の3月頃、結婚してから長く弾いていなかったバイオリンのケースを開けたら、中では弓がはじけてしまっていた。分かっていたことなのに、なぜかとてもショックで、自分が弾いていなかったこと、バイオリンを生活から忘れていたことを恥ずかしく思った。早速今住んでいる場所で、バイオリン工房を探したところ、幸運にも近くにあった。そこで、今回の記事を書くキッカケをくれた先生に出会うことになる。

 

お若い先生で、これまた元気なハツラツとした人だった。この先生との出会いをきっかけに、またバイオリンを始めることにした。少しずつ、少しずつ時間を取り戻していってもいいかなと。

 

そして、、前置きがながーーーくなったが、1ヶ月後の2/17にバイオリンの発表会を迎える。

 

曲は、クライスラーシンコペーション、、ということであったが、習い始めてから先生とトライしてきた曲は、真田丸のオープニングテーマ。この曲の奏者である三浦文彰さんは、いとも簡単に弾いているように見えるが、和音やポジション移動が大変難しい曲である。これは今の私には弾ききれないかなぁ、、という不安もあり、先生が新しい曲としてシンコペーションを提案してくれていた。しかし、長く先生とやってきた曲。思い入れもある。やりたい。やってみたい。そんな気持ちがあった。

 

そこで、恩師よーこ先生の登場。和音の部分や高音が続く部分が編曲された楽譜を紹介してくれた。

 

それでもリミットはあと、1ヶ月。

 

弾ききれるか。

また逃げるのか。

 

私はいま繰り返し繰り返し、真田丸を聞いている。この曲は、NHK大河ドラマ堺雅人さん主演の「真田丸」のオープニングテーマなのだが、そのドラマの内容を熱く音で表した作品である。堺さん演じる戦策士の真田幸村が、徳川の陣へ向かっていくまでの人生や、歴史としては敗戦してしまうその情景、その歴史が丸ごと表現されている。聞けば聞くほどに、ドラマ真田丸を見ていた私にとっては、その一つ一つのシーンが思い出され、胸に熱く響いてくる。

 

音色一粒一粒が、私の背中に喝を入れてくる気がする。

 

おまえに弾けるか?

 

 

やるんだ!

弾くんだ!

ものにするんだ!

諦めるな!

 

中学1年生の時に、あのコンクールの曲から逃げた私。

真田に背中を押されて、熱く、戦わねば。

 

いざ!

 

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drawing : まだ頼りない真田丸